教員志望に知っていてほしい著名な教育者! 日本の教育に影響を与えた7名とは?

日本における初等教育は、1872年の学制の発布から始まり、全ての人が教育を受ける義務教育が始まったことは有名ですね。実は、学制の発布以前にも、寺子屋と呼ばれる学びの場が日本各地にあり、子どもの教育を担っていたのを知っていましたか。

学制の発布から150年の間で日本の教育は大きく変化してきました。今回は、教員志望者や教員なら知っておきたい日本の教育に大きな影響を与えた7名について紹介していきます。

ライター

emikyon

・元公立学校教員

・教育委員会にて勤務

・eduloライター歴2年

日本で最初の小学校を作った「宗 義真」

日本で最初の小学校はどこと言われると定義が難しいのですが、現在の学校制度に近い形で誕生したのは1869年(明治2年)に京都で開校した「上京第二十七番小学校(現・京都御池中学校)」と言われています。

しかし、まだ学校制度がない江戸時代に「小学校」という名前で誕生した学校は長崎県の対馬にありました。このときに学校の設立に尽力したのが対馬藩主の宗 義真です。

1685年に家臣の子弟を教育する目的で学校を作り、小学校と名付けていました。当時の対馬藩は朝鮮半島との貿易の中継点の1つであり、教育をすることは、その後の藩の利益になるとにらんで学校を設立したのではないかと言われています。しかも、外国との交流を意識した「外国語教育」も行われていたとされています。

だれもが学べる公立学校を作った「山本 比呂伎」

教育が重要視されてきた江戸時代の末期、日本各地には寺子屋から学びの場が生まれ、今の学校のもとになるものが生まれてきました。一方で、寺子屋は現在の私立の学校のようなものであり、みんなが平等に学ぶことができる場ではなく、通うことができる子弟も限定されていました。そこで、全ての子弟が平等に教育を受けることができる公立学校山本 比呂伎(ひとぎ)が作りました。新潟県小千谷市に1868年(明治元年)小千谷小学校の開校をきっかけに全国に学校を作る流れが高まり「学制」につながりました。また、だれもが平等に教育を受けることができる「公教育」という考えを広めるきっかけにもなっています。

西洋の学問を広め「学制」に大きく関わった福沢 諭吉

3人目は、旧一万円札でおなじみの福沢諭吉です。代表作「学問のすすめ」は歴史の教科書でも紹介されている本であり『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』という有名な書き出しを覚えている人も多いのではないでしょうか。

福沢諭吉は、学問に興味を持ち、蘭学からスタートしてアメリカに渡り、西洋の進んだ教育を勉強して衝撃を受けました。当時の西洋は強国ばかりで、日本が西洋と対等に渡り合っていくためには「学問が大切である」という信念がありました。明治のスタートに発布された学制には「学問のすすめ」の思想が反映されており、福沢諭吉自身も日本の学問がさらに高まることを目指して大学(慶應義塾大学)を設立しました。

明治以降、富国強兵・殖産興業を成し遂げ、鎖国状態だった江戸時代から欧米強国と対応に渡り合うことができるまで急成長した背景には、人材育成は教育からということを掲げた福沢諭吉の構成が大きいと言われています。

初代文部科学大臣「森 有礼」

4人目は、初代内閣総理大臣の伊藤 博文の腹心として初代文部科学大臣を務めた森 有礼です。森の功績は、初期の日本の教育制度の確立です。日本の教育制度は、第二次世界大戦の前と後で大きく異なり、森が確立した「大日本帝国」の教育制度は、今の制度に共通する部分もあります。

大きなものが「学校令」の公布(交付)に関与したことで、これにより初等教育(小学校令)、中等教育(中学校令)、高等教育(帝国大学令)を交付しました。帝国大学令が出たことにより国の中でも重要な大学として旧帝大(東大・京大など)の大学が誕生しました。

さらに師範学校令を公布し、東京に教員を要請するための大学、東京師範学校(現 筑波大学)が誕生することになります。さらに女性のための師範学校として女子高等師範学校(現 お茶の水女子大学)の誕生にも関わってます。

現在の教育の6-3-3制(最初の6年が初等教育、後の6年が中等教育)という制度を確立し、さらにその上に高等教育機関として大学を設立するという今の教育制度のもとを作った人物です。

現代教育学の基礎を作った「澤柳 政太郎」

5人目に紹介する澤柳 政太郎は、教科書には出てくるような有名人ではありませんが、現在の教育に大きな影響を与えた人の一人です。全ての人が平等に教育を受けることが強い国づくりに関わると考え、森有礼が公布した小学校令を改正しました。改正の大きなポイントは義務教育の課程を4年から6年に延長し、今の小学校課程の基礎を作り上げました。

さらに、文学教育における「読み先習の法則を発見し、現在の国語学習の基本形になっている「漢字の読みを先に指導し、読みが充分身についた時点で書く練習を行う」という手法を広げた人物でもあります。当時は「変体仮名」や「歴史的仮名遣い」など国語学習において子どもが学びにくい状況がありました。そこで変体仮名は廃止、歴史的仮名遣いは存命中に廃止することはできなかったものの第二次世界大戦後の「現代仮名遣い制度移行」へのきっかけを作りました。

当時の日本の教育学はまだまだ発展途上であり、よりより日本の教育を作り上げるためには研究が必要であるとの考えから「成城小学校」を開校させました。同校では、小学校教育に関わる様々な研究が行われ、今日の学習にも影響を与えています。

なぜか学校によくある「二宮 金次郎」像

みなさんの小学校には、薪を背負いながら歩く二宮 金次郎の像はありましたか。二宮金次郎は江戸時代の農民生まれの勉強好きな子で、働きながらも勉強していた姿が銅像になっています。寺子屋に行くような時間はなく、独学で勉強しながら仕事をし、自分の土地を広げ、世のために尽くした人物です。この姿が「一生懸命努力する」「はたらくことを惜しまない」等、日本人が大切にしている姿を表していたので、「修身(現在の道徳)」の教科書に掲載され、このときの挿絵が銅像の姿になりました。この教科書は全国で利用されており、模範的な少年として銅像が学校に飾られることになりました。「修身」という教科は、戦後の教育改革で廃止されたため、二宮金次郎の銅像があるのは戦前(昭和20年以前)からある歴史のある学校に置かれています。

今の教育制度に大きな影響を与えた「GHQ」と「ストッダード(米教育使節団)」

最後に現在の日本の教育の元になった制度を作ったのがGHQと、そのGHQが招いた「ストッダード(米教育使節団)」です。

第二次世界大戦に負けた日本はGHQの占領下におかれ、まず「四大教育指令」によって軍国主義者の教育からの追放、学校教育と国家神道との断絶(先ほどの「修身」の廃止など)が行われました。次に新しい日本の教育を作り上げるため、日本国側の委員会とアメリカから招いた「ストッダード(米教育使節団)」によって教育改革が実施されました。

その中でも現在の学校に大きくかかわっているのが

①教育の地方分権 → 教職員の地方自治体ごとの採用・昇進などの権利を与える

②国定教科書の廃止 → 国が定めるのではなく、教科書はいくつかの会社から出して検定を行い、認可されたものの中から地方自治体が採用する

③都道府県市町村に一般投票によって選出された教育行政機関の創設 → 教育委員会制度の誕生

④男女共学制で無償の九か年の義務教育 → 現在の義務教育9年制度

⑤三年制の上級中学校の設置 → 現在の高等学校 

⑥さらにその上に四年制の高等教育機関の設置 → 現在の大学

⑦国語改革(ローマ字採用)→ 小学校3年生で行うローマ字教育や英語教育

どれも現在の学校の基本になる制度であり、戦前の教育内容とは大きく変わっていることが分かります。それほど、戦後のGHQによる教育改革は大きなもので、今日の日本の教育のベースにもなっています。 

参考文献:我が国の義務教育制度の変遷,文部科学省,https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05082301/017.htm,(参照 2024-11-08)

参考文献:「戦後教育」はこうして始まった 教育基本法制定と教育勅語廃止決議,日本政策研究センター

http://www.seisaku-center.net/node/407,(参照 2024-11-16)

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