「まだ宿題出していない人がいるよ!」
「宿題をやっていない人は休み時間にやりなさい!」
朝の教室でこのようなやり取りが良くあるのではないでしょうか。確かに教員からすれば、宿題を出したのにやってこないと、怠けている、怠惰だと感じてしまうのでしょう。宿題をしないと勉強ができるようにならないから、心配をしているという教員の責任感に近い気持ちもあるのかもしれません。
子どもたちが宿題をできなかった事情はさまざまです。体調がすぐれなかったのかもしれません。もしくは、宿題が難しくてできず、劣等感を感じながら登校したのかもしれません。そのような子どもの気持ちを無視して、教員の都合だけで進めてもよいのでしょうか。
そもそも宿題とは何なのでしょうか。まず、主体的という視点から考えてみましょう。
宿題のすべてを教員が決めるとなると、主体的ではなくなってしまうところがあります。宿題をする際に、何か目標や目的が子ども達の中にあるかどうか。また、教員と子ども達の関係の中で、主体的に学びに向かう姿は変わってくるでしょう。反対に、やることを決められた方がやる気になる子もいます。この場合は、自主的と呼ばれるものでしょう。
毎日先生が宿題を決める場合、学びの調整をする機会が奪われているのではないでしょうか。私が宿題を家庭学習という名前に変えて子ども達と過ごしたときは、計算や漢字などのドリル学習は、締め切り日を設定し、その子に進めるスピードを任せました。子ども達は自分に合ったペースでドリル学習をします。締め切りまでに間に合わない子もいますが、その子には、自分自身で、その学習を終えられる日を決めてもらいました。子ども達の放課後まで考えると、習い事が曜日によって違っていたり、家庭の都合で学習以外にもやらないといけないことがあったりもします。
「自分で決めた日までならできるかな?試してみよう!あ、できた!」と達成感を味わえるような機会となれば、子ども達は主体的に家庭でも学習することができるかもしれません。このように子ども達と対話をしていくと、個別最適な学習の機会に宿題というものがなるのではないでしょうか。
次に、対話的という視点から考えてみましょう。誰と対話をするのか。何と対話をするのか。宿題における対話は、単なる話し合いとは違うでしょう。テキストと対話をしたり、自分自身と対話をしたり、家にいる両親や兄弟姉妹と対話をしたりするでしょう。そのように考えていくと、宿題というものを単なる習熱の機会として捉えるだけではもったいないようにも感じます。子ども達が何と対話し、対話からどのような学びを得るのかを考えていく。そうすると、学校で行った授業の延長戦と考えると面白そうです。授業で調べている途中だった歴史上の人物を家でも調べたくなって調べてしまう姿。図書室で読んでいた宇宙の本が面白くて、家で読みながら学習ノートにまとめてみる姿。友達の自主学習のノートを見て、自分もやってみたくなる姿。このような対話状態になる宿題であれば、学ぶということを遊び感覚で楽しめる人になるのではないでしょうか。
これから向かう未来では今ある6割の職業がなくなると聞いたことがあります。そんな未来で必要な力や学び方が上記のような姿なのではないでしょうか。いわゆる「自主学習」や「探究」と呼ばれているものです。今は、インターネット上にたくさんの情報があります。たくさんの情報の中から、何が必要で、何がいらないのか、何が本当で、何が嘘なのか。素直に習熟するだけの学習では、そのような力はつきにくいのではないでしょうか。子ども達が向かう未来では誰もが会社をつくるようになるのではないかとも聞いたこともあります。世の中にある当たり前を自分が納得できるまで、考え直し、どんな会社をはじめるとよいのか。そのように考えることや学ぶことが宿題でも育てられる機会となるのかもしれません。宿題を嫌なもの、罰のようなものではなくて、未来につながる学びとして捉えてみませんか。