【校長インタビュー#23】海城中学高等学校の大迫弘和校長へインタビュー!

今回は、海城中学高等学校校長の大迫弘和先生と、校長特別補佐の中田先生、入試広報室の塩田先生にお話を伺いました。

大迫先生は東京大学文学部を卒業後、千里国際学園中等部高等部校長・学園長、Chiyoda International School Tokyo学園長、武蔵野大教育学部教授、都留文科大特任教授などを歴任。また、日本における国際バカロレア(IB)教育の第一人者として知られ、文部科学省及びIB機構に協力しIBの国内での普及促進に尽力されてきた、日本を代表する教育者の一人でいらっしゃいます。

インタビューでは、海城中高の歴史や、30年以上に亘り行ってきた教育改革のあゆみと共に、日本の中等教育を熟知した大迫先生が校長に就任した経緯、目指す教育について伺いました。

「難関大へ数多くの合格者を輩出」
その実績の裏で見えた課題

本校は1891年に海軍兵学校の教官を務めていた古賀喜三郎によって、海軍兵学校への入学を目指す「海軍予備校」として設立されました。当時は「一に海兵(海軍兵学校)、二に陸士(陸軍士官学校)、三・四がなくて、五に東大」と言われるくらい、海軍兵学校へ入学するというのは難しいことでしたが、そこに入学させるための学校としてできたのです。

中田:はい。ですが戦後の流れを見ると、東京都内の私立学校の多くは公立の滑り止めという立ち位置に甘んじていた期間が長く、当校もその一つでした。
それが、1967年に都立高校入試において「学校群制度」が導入されたことをきっかけに、流れが変わっていきます。「学校群制度」は、公立高校を群ごとに束ね、受験生はこの「群」を選択し受験するという仕組みです。ですが、学校間の学力格差をなくすことが目的であるため、合格者はランダムに郡内の学校へ割り振られてしまいます。つまり受験生は試験で良い点を取っても、自分の希望する高校へ進学できるとは限らなくなってしまったんですね。

こうした背景の中、この制度を嫌った、難関大学への進学を目指す優秀な生徒たちが私立学校に集まるようになり、各私立学校は進学実績を上げていったという歴史があります。海城もその流れの中、私立大学への進学実績においてどんどん成果を上げ、80年代には早慶の合格者数が全国トップレベルに。そして90年代には東大合格者を平均40人、多い年で60人輩出するまでになりました。

ですがこれと同じ時期に、「海城生は他校生に比べ、東大に入ってからの留年率が高い」という指摘を受けるようになったのです。
本校が当時実現していた進学実績の裏には、生徒のお尻を叩くような「スパルタ指導」や、行き過ぎた管理教育がありました。要するに、こうした指導により大学受験で燃え尽きてしまって、東大に入ってから学習意欲を調達できなくなってしまう生徒が一定数いるということでした。この事態には当時、我々教員も衝撃を受け、反省しました。

生徒が大学受験で燃え尽きてしまうような、受験特化型の指導には問題がある。ではどうするか。私たちは様々議論をし、今一度「国家・社会に有為な人材の育成」という建学の精神に立ち返り、教育を見直していこうと、教育改革を行うことを決めました。それが今から約30年前。海城高校が開校100年を迎えた1991年のことです。以来、現在まで約10年ごと、3期に亘り改革を行っています。

「世の中の30年先を歩んできた海城」
教育改革の歩み

中田:「社会で活躍できる人間」とはどんな人間か。我々は非常にシンプルですが、学力と人間力がバランスよく身に備わった人間だろうと結論づけました。しかも学力においても人間力においても、時代が要請する「新しい学力」や「新しい人間力」を含み持っていなければなりません。

第1期:「新しい学力」の育成

中田:第1期にあたる約10年は、「新しい学力」で目立った取り組みが見られました。
では、「新しい学力」とは何か。それは、課題設定力や解決能力であると考えました。単に知識を頭に詰め込んで必要なときに取り出せる力ではなく、さまざまな問題を発見したならば、課題を設定し、解決のために情報を集めて分析熟考し、何らかの価値判断を加えて解決方法を導き出していく。そしてそれを他者に分かりやすく伝え、グループで協働して問題解決に当たるというような総合的な力です。

では、どのようにその育成を実現するか。その当時から既に学会では、「こうした能力を身につけるためには、教科書を中心にした系統学習だけでは不十分で、探究型の総合学習が有効である」と言われていました。ですからまずは、当時本校の中でも一番意識の高かった社会科で、週に4時間ある授業のうち2時間を利用して、探究型の授業を始めることにしたのです。

この授業では教科書を使わずに、こちらが示すテーマをもとに生徒自身が課題を設定し、研究を行います。まずは文献の収集や活用の仕方を学び、次に実際に現場で課題解決に努めている方を探して取材をし、そして各学期末にはこうして得た情報を分析してレポートにまとめます。これを繰り返し、中2の終わりまでに6回レポートを書くと、初めは原稿用紙5枚程度のレポートだったのが、20枚くらい書けるようになっていくんですね。中3では1学期・2学期掛けて、この授業の仕上げとして卒業論文を作成するんですが、生徒全員が本文だけで最低でも原稿用紙30枚の論文を書き上げます。

中田:はい。序章から始まり、第1章第1節、2節と章節仕立てに構成して、巻末には引用注や参考文献、取材先などを記載し、資料を添付するという、論文作成リテラシーもきちんと身につけます。

この社会科の授業は、海城の教育改革において非常にシンボリックなものですが、これに続くようにして、他の教科でも探究型の授業をスタートさせてきました。そして30年経ち、今では各教科で「新しい学力」を育成するノウハウと経験を、かなりのレベルまで積んできています。

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第2期:「新しい人間力」の育成

中田:次の10年で特に注力したのが、「新しい人間力」の育成です。ですが、これはなかなか一筋縄では行きませんでした。
改革を始めた90年代のはじめは、こういった力は授業以外の学校行事やクラブ活動、生徒会活動などを通じて養っていくというのが王道でしたから、まずはそこを充実させていくことから始めました。ですが、2000年前後ぐらいから、子どもたちの生育環境が大きく変わって、コミュニケーション力などが落ちていきます。それからWindows95が発表されて以後、インターネットが普及して、リアル空間がバーチャルな空間、今で言うSNSを中心としたそれによって脅かされるようになっていき、子どもたちが非常に萎縮していくんですね。
本校は、そういった問題に対処していくために、今で言う「非認知能力」、その中でも特に、対人関係の中のコミュニケーションや、協働して何かを行うようなコラボレーションの力を「新しい人間力」の核であると考え、それらを育成することに注力して行きました。

中田:はい。日本の社会も成熟化して価値観が多様化し、グローバル化が進んで国籍や文化背景の違う人たちと関わる機会が増えつつありました。ですから、これまでの日本の伝統的な同質性を当てにしたコミュニケーションではなく、お互いが異質であることを前提とした上で、なおかつお互い不愉快にならないよう関わる人間関係力や、違う者同士が良いところを引き出し合うようにして協働する能力を付けさせるべきだと考えたんです。

この力を身につけさせるための手法は、簡単には見つかりませんでした。ですが、誰かに教えられるのではなく、自らの体験の中で身を以って学びとるようなプログラムが必要であるという思いはありました。こうした思いでリサーチを続け2つの手法に辿り着きます。
一つは「プロジェクトアドベンチャー」というアメリカから入ってきた体験学習、もう一つは「ドラマ・エデュケーション」というヨーロッパで行われている演劇的な手法を使いながら想像力や人間関係力を養うというプログラムです。

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ドラマエデュケーションでは、岸田國士戯曲賞を受賞した複数の劇作家が、講師として海城生に向き合うというから驚きだ。

「『海城知』の更なる発展と、グローバル化」
大迫校長が着任した経緯

中田:ここまでお話しした「新しい学力」と「新しい人間力」の育成は、2010年頃には安定的に結果を出せるようになりました。そして2010年からは、ICTインフラも整備し、データサイエンスやプログラミングといった情報教育にも力を入れることで、情報リテラシーを身につけた人材の育成も始まっています。

我々はこうした様々な力を統合したものを「海城知」と呼んでいるんですが、今はこの確かなものになった「海城知」を、更に発展させる段階に入っています。

改革の今のステージのテーマは、大きく分けて2つあります。
一つは現代社会で活躍するために必要な、様々な知識を身につけた上で、自分の進んだ道で社会に貢献し、生涯にわたって幸せな人生を歩んでいくこと。そしてもう一つは、グローバル教育の更なる推進です。ですから、この両面において専門的知識を持つ大迫先生が校長に就任されました。

大迫校長の専門であるIB教育は、探究的であり、ホリスティックで全人的な教育プログラムです。ですから、こういった点では海城がこれまで取り組んできたことと非常にオーバーラップしているんですね。
そして大迫校長は帰国生教育の第一人者でもあります。本校は2011年に高校募集を停止し、中学受験の定員の10%である30名を帰国生から募集することにしたのですが、これにはただ帰国生を迎え入れるのではなく、帰国生を一つの起爆剤にしながら生徒たちの視野を世界に広げていきたいという思いがありました。この取り組みから10年経ち、今ではハーバード大学をはじめとしたアイビー・リーグや、アメリカのリベラルアーツの名門校への合格者も出始めていますが、こうした実績についても更に推し進めていきます。

大迫校長(以下敬称略):海城高校は中等教育機関ですから、生徒たちを高等教育機関へ送り出すという絶対的なミッションがありますが、その点は今後も全く問題ありません。私は、国際バカロレアの仕事を通して日本の中等教育の実態をよく把握していますが、本校の校長に着任してから、教員全員と面談し、授業や様々な活動を見る中で、改めて海城が極めて教育力の強い組織であると感じています。教員一人ひとりの指導力はもちろん、それぞれが工夫して作る独自の教材も、驚くほどレベルが高いのです。

そして、こうした教育力の高い教員が提供する内容を、きちんと自分のものにしていく子どもたちが揃っています。先ほど紹介のあった論文を中学3年生が書けるというのは、日本の教育の中でもここにしかないものだと思いますし、それだけ海城の中学生は突出した能力を持っています。

この環境であれば、今後の進学実績といった目に見える成果において何の心配もありません。ですから私の校長としてのミッションは、子どもたちの内面的な変化や豊かさを実現するために、更なる取り組みをしていくことだと考えています。

大迫:校長着任後の取り組みの一つとして、生徒の知的好奇心や社会的問題意識、芸術的感性に刺激を与えてくださる方に、「海城学術顧問」への就任をお願いしました。まずは、昨年度まで東京藝術大学の学長を務めた澤和樹さんや、劇作家の平田オリザさんといった7名の方に就任いただき、複数年に渡り海城生と向き合っていただきます。著名な方に単発的な講演をお願いするのはなく、生徒の学びの文脈の中で度々ご指導いただくことで、海城生の学びを更に深く、広く、豊かにしていただくのです。

例えばこの夏には、顧問の1人であるシンガーソングライターの加藤登紀子さんに「平和」をテーマにご講演いただきましたが、これは10月に沖縄への修学旅行を控えた高校2年生の事前学習として行ったものでした。加藤さんが、満州のハルビンに生まれ、奇跡的に生きて日本に引き上げてきたというご自身のお話から、現在のウクライナ情勢まで、様々な観点から語ってくださったことで、生徒たちは教科書では得られない学びを得るとともに、大きく心を揺さぶられていました。そして、ここで得た気づきを持って、実際に沖縄へ行き平和学習を行うことで、生徒たちはより真摯な姿勢で沖縄の歴史と向き合うことができました。

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「非認知能力の重要性を、身をもって感じている世代」
今、海城中学への進学を希望する家庭の特徴

大迫:海城といえば、進学実績においても日本を代表するような結果を出している学校ですから、当然この点も本校の魅力です。ですが今海城に興味を持たれているご家庭は、こうした本校が2-30年取り組んできたことにも関心を寄せてくださっていると感じます。

中田:今の保護者はニューノーマルの時代に生きる中で、ビジネスの世界で言われる「コンピテンシー」や文科省が言う「資質・能力」といった、非認知能力的なものを含めた力がないと、これからの社会では活躍できないと身をもって感じている世代になってきています。だからこそ、本校の取り組みに価値を見出してくださる方が増えはじめているんですね。

大迫:私は、こうした傾向を更に推進させていくことも、自身の校長としての役目だと思っています。
新たな価値観のご家族が本校に関心を持ってくださっても、まだまだ子どもたちは「中学受験」というプロセスを経る中で、どうしても偏差値的なものに縛られてしまい、他の生徒よりいい成績を取るとか、勉強を頑張ってご褒美をもらうといった動機で勉強に向き合ってしまいがちです。でも私たちは、本人の知的好奇心がエネルギーになり、自分自身が楽しいからこそ続けていかれるというような学習動機で学んでいかれるよう、子どもたちを根本から変えていきたいのです。ですから、これをより意識的に実行し、私たちのねらいを阻害するような要因をできる限り削ぎ落としていきたいと考えています。

それから、教育の世界では新たな価値観が生まれても現場はなかなか移行しづらいという現実があります。それに学校を選ぶ方々にとっても、新しい取り組みに対して「果たしてそれで大丈夫なんだろうか」という不安がまだまだあると思うんですね。それに対し、「これで大丈夫だ」と証明していくことが、世の中の30年先を進んできたこの学校の社会的使命だとも思っています。

大迫:まずは「海城」という学校についてよく調べていただきたいと思います。
私学の教員に必要なことは、その学校が持っているアイデンティティを知って、自分が「この学校で役に立ちたいな」という気持ちを持つ、ということに尽きます。教員も生徒と同様に、学校をその知名度や偏差値で判断するのではなく、その学校の教育観や価値観、大切にしていることに共感し、自身の力を発揮してみたいと感じるかどうかで学校を選んでいただきたい。ですから、まずは学校のことをよく調べ、知らなくてはいけません。

調べ尽くした上で、「この学校のメンバーになりたい」「こういう先生方と一緒に頑張りたい」あるいは「この校長の下で頑張りたい」と感じた人には、ぜひエントリーしていただきたいと思います。もっと言えば、これはキリスト教的な考え方ですが「ここの学校、生徒、教育のために私を使ってください」というような思いを持って入ることができると、教員生活を謳歌できると思いますね。

「昔も今も変わらない海城の雰囲気」
海城出身の教員、塩田先生が海城の教員になった理由

中田:実は入試広報室の塩田先生はかつて那須高原海城中学校・高等学校の教頭を務めていたのですが、改革元年の前年となる1991年に海城を卒業しています。スパルタ進学校と言われていた頃の卒業生なんですよ。

塩田先生(以下敬称略):初めに中田先生が、当時の海城について「お尻を叩くようなスパルタ指導をしていた」と話していましたが、それは比喩ではないんです。本当にお尻を叩いていました(笑)

塩田:それでも、先生たちが生徒思いだということは、私たち当時の生徒にはきちんと伝わっていたんですよ。生徒一人ひとりに向きあい、「何とかして希望の学校に入学させたい」と、愛を持って接してくれていましたから。

塩田:私は高校2年生の時に、文化祭実行委員長を経験したことがきっかけです。海城の文化祭は規模が大きく、都内屈指の学園祭です。そんなビッグイベントを生徒たちが主体的に企画・運営するのですから、楽しくないわけがありません。なので「一生文化祭をやり続けたい」と思ったんです(笑)そのためには教員になるしかないと思い、教員を目指しました。

正直、海城での6年間、勉強から逃げてばかりで、部活動や学校行事に打ち込んでいましたが、私のように学校生活を思いっきり楽しむことで成長を実感できる生徒を育てたいと思い、教員を志しました。

塩田:私立学校の良さは、不易と流行です。私が卒業したあと、この30年で本校は学校改革を推し進め、5年10年先を見据えながら常にアップロードし続けてきました。一方、昔も今も変わっていない点があります。それは、生徒一人ひとりが何か好きなことを見つけて、仲間と共にトコトン没頭していることです。

海城には、生徒が「新しいことにチャレンジしたい」と声を上げた時、「そんなの無理だよ、やめとけよ」と言う人はいません。どの先生も友達も、「こうやったらできるんじゃないか、ああやったらできるんじゃないか」と、共に考えて背中を押してくれるんです。私はそんな本校の雰囲気や気風が好きですし、これからも変わらず残していきたいと思いながら、未来の海城生を求めて仕事をしています。
ですから、是非こういった学校の雰囲気に共鳴してくださる方に、本校の教員を志望していただきたいですね。

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