【校長インタビュー#4】立教女学院中学校・高等学校の学校長である田部井先生へインタビュー!

今回は立教女学院中学校・高等学校の学校長、田部井先生にお話を伺いました。
教員志望の方や新任教員・若手教員の方向けに、ご自身の経歴や思い、ミッションスクールである立教女学院の使命などをお話していただきました。
また、倫理が専門領域である田部井先生が好きな哲学者や思想家についても、お話していただきました。

田部井先生自身について

―なぜ教員になられたのかお聞かせいただけますでしょうか。

田部井:自分がやってきた専門を子供たちに教えたいといいますかね。教師になればそういう機会がありますから、子供たちと一緒に自分のやってきたことを伝えたいなという思いですね。

―元々は、社会科の教員として教壇に立っていたと伺いました。

田部井:はい。私の専門は、倫理になります。

 ―今ちょうど、新任の先生が配属される時期かと思うのですが、先生が新任だった時に、何かぶつかった経験などがあればお伺いしたいです。

田部井:私の若いときのことですか?忘れちゃいました。(笑)
やっぱり、自分の勉強してきたことを教えたいという気持ちがあるので、初めのうちは子供がどんなことを考えているよりかは自分が教えたいという気持ちが強かったです。

何年かすると生徒はこういう関心の持ち方をしているというのがわかってきますので、そこにあっている教え方というのを次第にわかってくるのですが、そういったことは現場を通さないとわからないことですね。
特に私の科目は倫理なので、必ずしも多くの生徒がそういうものに関心があるわけではないかもしれません。
だけど、私はとても面白いと思っていて、その落差をどうやって埋めれば良いか、それがはじめのうちは苦労しましたね。

倫理に関心のない生徒との気持ちの落差

―具体的にその落差を埋めるためにどのようなことをされましたか?

田部井:一つは「生徒の興味関心がどこにあるのか。」ということを、授業を通して私の方が理解していくことをしなければならないですよね。しかし同時に、勉強を教えるということは子供たちのレベルに合わせて授業を展開するということじゃないですね。
やっぱり教師が持っているところにいかにして生徒たちが関心を持ってくれるかなので。
一方では生徒のことを考えないといけないけれど、同時にこちらは「ここまでは生徒に教えたいんだ!」という目標をもつと良いです。

それは何年かかるかわかりませんし、すぐにできるわけじゃないかもしれないけれど、どこかで何かのきっかけがあって、その時に「そうだ!そんなこともあったな~」って思ってもらえればいいなと思っています。
倫理という科目の性格かもしれませんけど、教育ってもともと即効性のあるものじゃないじゃないですか。

世間はそういったことを求めているかもしれませんが、教師は即効性を求めるのではなく、学んだことが子供たちの体にしみこんでいって、そのことを思い出してもらって、そういう時に生きる力とかいろんなことにつながればいいと思いますね。

勿論、直接教科とは関係ないと思います。そういう意味で子供たちのことも知らなければいけないけれども、同時にここまでは子供たちの力で来てもらいたいと教える側もきっちりとした指導目標をもってないとぐらつくと思いますね。
生徒ってやっぱり時代で変わってくるじゃないですか。だから、私たちは彼らの価値観なども知っておかなければならないと思います。

でも、教えたいことは決して時代に左右されることじゃないですよね。

また、中等教育っていうのはテクニックを教える場所ではないので、いかに勉強が楽しいかとか、そういう興味関心を持ってもらうのを、どの教科も目指していると思うんです。
だから、生徒を理解することと自分の教育目標や目指すべきこと、そういうことをいつも頭に置きながら指導に努めるというのが必要だと感じます。

私学の建学の精神に共鳴し私学で働

―田部井先生はずっと私立の学校で働いていたのですか?

田部井:はい。私は、大学院を出てから最初に別の私立の学校に勤めていて、そのあと立教女学院に来ました。

―公立の教員採用は検討されなかったのですか?

田部井:それはないですね。公立は公立の良さがあると思いますが、教育はもともと先生と生徒達が自由なところで出来るのが良いのかなと思っていたので、私学を選びました。
もちろん、公立だって自由な部分もあると思います。ただ、私学って建学の精神があるじゃないですか。なので、やっぱりそこに共鳴して勤めていると思うんです。

もし、本校に勤めたいということでしたら、まず何よりも、建学の精神とか、教育方針に共鳴できるか、が肝心ですね。
本校でいえばキリスト教に基づく教育です。別にクリスチャンである必要は全くありませんが、キリスト教に基づく教育というのがどんなことなのか、そこに自分はどういう形でアプローチできるのか、というそういうことを考えながら選んでもらいたいと思います。
特に私学の場合は、自分で移っていかなければ環境が変わることは、あまりないわけです。
むしろこの私学の教育に共鳴したならば、深くその教育を自分のものとして子供たちに伝えていきたい。あるいは新しい先生が来ればそういう先生たちに教師として伝えていく、私学ってそういう流れで来ている意識を持つことだと思います。

志望する学校の教育方針を理解し、そこにアプローチできるかを考える

引用:立教女学院中学校・高等学校の教室

田部井:もし私学に勤めたいと思っているのであれば、その学校はどういう教育を目指しているかを理解してください。どこでも良いってわけじゃなくてね。
それは難しく考えることは何もないと思いますね。そうでないと大変だと思うんですね。

―私学への就活は情報が少ないと思います。教員を目指す方に向けて、やっておいた方が良いことなど、採用する側からアドバイスがあればお伺いしたいです。

田部井:私学の場合は、教科指導に長けている一方、他の教員と一緒になって建学の精神や教育方針を皆で守っていくということです。その二つの面から教員として問われてきます。
そのためには、自分の専門教科が、ライフワーク的な存在であると良いと思います。

例えば私は倫理・哲学が専門ですが、やっぱりこの思想家を特にずっと自分は勉強していきたいという思いがあります。たとえ教員になったとしても、時間があれば調べていきたい・学んでいきたいと思っています。
そして、そうした姿勢もまた、もっと授業などで活かしていけると思うんですね。そういう意味で自分の専門性というのをきちっと持ってもらいたいです。

それから、もう一つはやはり子供が好きでないと学校では働けないですよ。
学校の先生になればクラブ活動をやったり、担任もやったり、保護者の対応があったりするわけです。それも含めて子供たちをトータルに私たちは引き受けているわけですよね。

その意味で教科指導だけではなくて、この学校で学んでくれている子供たちをどうやって、この学校の生徒としての誇りや意識を持ってくれるか。本校でいえば、高等学校を卒業するときに立教女学院の生徒としてその意識をもって卒業してもらえるか。
教員には、そのことをいつも考えてもらいたいですね。
私は「そういったことに全く興味がなくて、ただ教えたいだけなんだ。」という考えだと私立学校を検討している場合は本人も楽しい教師生活にはならないと思います。

教員のSNSは「子供たちの人権に対する配慮」

―SNSを利用する教員も増えており、プライバシー上の問題も最近は議論されています。
その点もふまえて、ちょっと最近の教員たちってこういうところが足りないなとか、教師向けに気を付けてほしいことなど何かあれば教えてください。

田部井:私たちって生徒たちとのかかわりの中で授業をしたりしているわけですから、当然守秘義務があります。
生徒たちの個人的なことにも立場上、入っていくわけですよ。それだから心を開いて生徒が話してくれたならば、その内容を教員は自分の心の中にとどめておくべきですね。
だからSNSを使うのは、否定する気はありませんが、そこに教師としての歯止めというか、それは必要だと思いますね。
その歯止めは「子供たちの人権に対する配慮」。これに尽きます。
自分が言っていること、つまり先生が言っていることを生徒が聞いたときにどう思うか。これは、授業中でも一緒だと思うんですけれども、私たちが何か言うことで励まされる生徒もいれば、もしかしたらその言葉一つで傷ついてしまう生徒もいるかもしれないです。

情報の発信はとても必要だと思います。しかしやはり情報は精査しないと意味がないじゃないですか。
今の時代は情報過多で、私たちが子供たちに伝えたいことは、情報化社会であればあるほど、何が正しい情報か、何がフェイクなのか、本質や本物を見極める能力が重要だと私たちは子供たちに伝えたいですね。それが教育の本質だと思います。

ですから、学校教育はきちんとした基礎を学ばせる必要があります。基礎さえしっかりしていれば、何が本物かどうかというのは見極められるはずですよ。
そういう意味で本物を見極められるような力を身につけさせてあげたいなと思います。
中高6年間のスパンがあるわけだから、要は学校というのは卒業するときに、その学校で学んだ意味があれば良いのです。初めのうちは、きっとその意味が分からないと思うんですよ。でも、日常生活を通して、気が付くと学んだ意味を理解して、晴れて『立教女学院の生徒』になっていたという。
私はやっぱりひとりひとりがそういう意識を持って卒業すればね、この学校で学んだ意味があると思うんですね。

感染症流行にともなった学校教育の変化

引用:立教女学院中学校のグラウンド

―最近新型コロナの流行の影響が各所でみられていますが、貴校でもコロナ禍になって変わったことはありますか。

田部井:本来教育というのは顔と顔を合わせるもので、学校現場は特にそういう機会は大事じゃないですか。それは教師と生徒もそうだし、生徒同士もそうだし、そういう意味でオンラインというのは一定で限界がありますよね。
だけど、同時に実際には生徒達に対して教育の機会を提供しなければなりませんから、そういう意味でオンラインも有効な手段だと思います。ただ、これによって学校教育の本質が変わってくるのは問題かなと思いますね。

しかも学校教育って一人で勉強するわけではないですから、友達とともに学ぶというのが学校教育の一番肝心なところですよ。これまでは、なかなかそれができない状況でしたね。
またオンラインを補助的に使うことは必要だと思いますが、それで終わってしまったら学校教育ではないと思います。

 ミッションスクールの使命|コロナ禍と倫理

引用:立教女学院中学校・高等学校の聖マーガレット礼拝堂

特に私たちのミッションスクールは「女性が高い知識を持ち、人間的にキリスト教の精神で豊かになっていく。」というのが目指すところなので、高い知識を求めてみんな勉強していくんです。
そのためには、「もっと違う世界がありますよ。」ということを教えてあげないと、すぐには取り組めませんから。
大学に行ってきちっと学べるだけの力をつけてあげたいというのが本校の基本ですね。

―田部井先生が教えた生徒の中に、実際に哲学の勉強をする生徒はいましたか。

田部井:います。今、実際に大学の先生をやっている卒業生もいます。やはりそれはとてもうれしいですね。
でも、その専門だけじゃなくても、生徒たちは生きていく上で、どこかで哲学的なことを考えると思います。そのきっかけになれば、それもまた大変うれしいことです。

―即効性が求められがちだけれども、そうではないとのことでしたが、世の中や保護者の方でも即効性を望む方がいると思いますし、生徒もそれを望んでいることがあると思います。
社会全体でもそう感じることがあると思うのですが、倫理自体、最も社会が求める即効性に遠い科目であり、回答がでない科目だと思います。社会が求める即効性にどう回答していくのでしょうか。

田部井:まずは、科学技術が進んできますよね。そうするといろんな価値観が出てきて、例えば医療が進んでいく、今では臓器移植が極めて当たり前のものですが、そのときに「死の概念とは何か。何をもって死とするのか。」という課題がありますよね。
哲学とか倫理は、そういう時に初めて意味を持ってくるので、明るく楽しいときにはあんまり関係ないかもしれないですね。
それはコロナ禍になって、経験したことのない難しい社会になって初めて、人が生きるというのはどういうことなのかというのを考えるわけじゃないですか。

こういう時代だからこそ、コロナ禍の後はどうなるかというのを考えるとき、いわゆる今までの価値観とか人間関係とかを見直すときに、哲学とか思想関係は、人間とは何かを考えますけど、みんなに嫌がられちゃうんですよね。
人間とは何かって普段言っても白々しいじゃないですか。(笑)愛とは何かって言ったときに、親子の愛であったり、友情であったりと普段から生きている時に生じるもので、それをあえて聞かれるわけだから、それはめんどくさいことですよね。(笑)

でもミッションスクールというのは、多くの人は普段から宗教を考えて生活しているわけではないですが、私たちはこの学校でキリスト教を通して、「生きるとは何か、他者との関係とは何か。」というのを伝えたいと思っています。
それがやがてきっと生徒たちが生きるための力になると思うし、時には他の人を励ますことができると思うんですよ。そうするとそこで初めて宗教的なことが生徒たちに生きてくるんですね。
そのために私たちは種まきしているだけです。ミッションスクールとはそういう学校だと思います。
だから教師としてこういう学校に勤めるということであれば、そういうことに対する共感はぜひ持ってもらいたいですね。

私立学校が教員志望者にできることとは

―私学の場合は建学の精神と校長あいさつなどの少ない情報しかないと思っており、情報量が少ないと思います。教員志望者側が知りたいということに対して私学側はまだできることはあると思いますか。

田部井:それは当然ありますよ。情報は発信していかなきゃならないし、本校の場合はキリスト教に理解のある方が欲しいわけですから、学生の興味があるようでしたら、ミッションスクールってこうですよっていうことを伝えてく必要がありますよね。
私たちが欲しい人物に対してどういう考え方を持っているかを伝えていかないといけないと思いますね。

田部井:教師の仕事は個人でやるわけではなくて組織でやるものなので、自分がこれをやりたいからというだけでは務まらないですよね。
教員は、みんな一匹狼で好きなことができそうに見えるけど、学校の教育力って教員がみんなでまとまって動いているからこそ相乗効果があるわけじゃないですか。もし、これが一人で動いていたら、ほんとに一人の力しかないわけですよね。

だからこそ良い学校は、教員がどこかでまとまって、一つの方向に向いている学校だと思っているんです。なので、これから教員になろうとする人は、教えるだけじゃなくて、その一員として何ができるのかとか、採用する側としては将来的にこの学校の核になる可能性を見ています。
私学は採用の機会は多くないので、一人の先生が果たす役割というのはとても大きいわけです。採用すればずっとその先生にいていただくわけですから、私たちは慎重になりますよね。

だから時に志望者の中で該当する方がいらっしゃらなければ採用しないってこともあります。学生から見ても志願した学校が自分の思っていた学校ではなかったとしたら、これほど残念なことはないですよ。私学は様々ですから、行ってみたら合わないということもあると思うんですね。

―採用してみたものの実際に働いてみたら違ったな。みたいなこともあるんですか?

田部井:それはもちろんありますよね。しかし極めて少ないですよ。
やはりかなり慎重に採用していますので、採用しておいてうまく行かないというのは採用する側の責任ですよ。だからしつこいくらいに面接はしますね。

―逆に採用時はあまり良い印象でなく、採用してから良くなっていくことはありましたか?

田部井:それももちろんありますね。今、本校の若い先生たちはみなさん採用時も好印象でしたし、採用してからもとても活き活きとやっていてくれていますよ。
採用で教科の先生方と共に見てもらいます。ゆくゆくは、教科の先生方とは仲間として、一緒に仕事していくわけですよね。だから、力量をしっかり見て、そして、しかも教科でこの人の人柄が良いですというのを大事にする必要があると思います。
最後に面接をしますが、それまでにいろんな人の目を通っているので、採用してうまくいかないというのは少ないです。

立教女学院で採用したい人物

引用:立教女学院中学校・高等学校に咲く八重桜

―貴校で採用したい人物像等を教えてください。

田部井:将来、教科教師としてだけでなく、学校の仕事を担うような核になる教員が良いですね。いろんなことに挑戦する意識を持ってほしいです。
また、大学生たちって現場を知らないわけじゃないですか。だけど実際には教えることは教員の仕事の何分の一かもしれません。ぜひ教師の仕事というのを幅広く考えてほしいですね。
核になるのは教科を教えるということですけれども、それ以外にも子供たちと触れ合っていったり共有したりするわけですからね。

私も20年近く大学で教職課程を教えていました。だから大学生がどんな気持ちで教員を目指しているか、ある程度はわかっているつもりです。私学で働きたいとか、公立で働きたいとかなんですが、大半は自分の出身校を背景にしているんですね。
だから公立出身の子は公立志望になるし、私立出身の子は私立志望になるし、だから中高での6年間の教育はとっても大事ですね。
私立学校のとても重要な課題の一つは、将来母校に戻って教えたいとか、同じような私立学校で働きたい意識をもった子供たちを、次の世代に1人でも2人でも増やしていくというのが大きな役割かもしれないですね。

 田部井先生の好きな哲学家や思想家

―好きな哲学家とか思想家とかがいれば教えてください。

 田部井:私はキリスト教倫理というのが専門なんですけどね。まぁ哲学でいうとドイツのイマヌエル・カントとかですね。オーソドックスなところでいうと。
どちらかというと英米系の倫理学、キリスト教の倫理学が専門で、ちょっと特殊な倫理学だと思います。
ラインホルド・ニーバーが専門なんですが、「変えることは変える勇気と、変えられないことはそれを受け入れる冷静さを、両者を峻別する知恵を持て」という言葉があります。

たとえば、社会の問題で変えることができるものはちゃんと変えていかなければならないし、人の心とかは変えられないじゃないですか。そして、大事なことは両者をきちっと分けなさい。ということなんですね。
「無理して人の心を変えようとしたり、変えなければならない社会の問題に無関心であったりしてはダメですよ」ということです。これはとても有名な言葉です。学校教育を考えたりする時のヒントにもなるような気がします。

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